「やべ、バグった」
男の声が耳を打った。
「ま、いっか。なんとでもなるだろ」
床が冷たい。
どうやら仰向けに寝転んでいるようだ。
「おい。そろそろ起きろ村瀬柚絵むらせゆえ」
「……にゃー」
ん?
「よし、起きたな。おまえはいまさっき死んだ。ゲームオーバーだ。てことで、いまから次のキャラに転生する」
「にゃ?」
んん?
「えーと、いままでのは『女子高生ほのぼのライフ』の女友達Fか。クソどーでもいい脇役だな」
「うにゃ、にゃにゃにゃ」
「あー、説明な。説明ははしょるわ。めんどくせーから」
あれ? 気のせいかな。
さっきからあたし、にゃーしか言えてないような。
でもこの人に言葉通じてるよね。
やたらイケメンなお兄さん。
スラッと細身で、黒いTシャツに黒いジーンズを着ている。
「分離むずかしそーだからこのまんま送るわ。好きな数字は?」
「にゃー……。にゃにゃ」
「8な。ろくななはち。あ、やべ。ひとつ多くなっちまった。ま、いっか」
男はスマホをいじりながら、かったるそうに肩をとんとんしている。
不安になってきた。
理由はよくわかんないけど、ものすごく不安になってきた。
「……みゃあー……」
「ん? あーわかったわかった。そんな目で見んなって。おまえにはチートつけてやっから」
「み?」
「そ、チート。特殊能力な。てきとーに見繕っといてやるよ。ほら、ここに立て」
「にゃお」
いわれた通り、スポットライトのなかに立つ。
いま気づいた。ここは高校の体育館だ。
ああ、変な夢。
変な夢すぎる。
「ん? おかしいな、エラーになる。混じったからか? 記憶も消せねーじゃねーか。めんどくせーな、あいつんとこ送るか」
ブツブツいいながらスマホをいじっている。
「そんじゃまあ、そーゆうことで」
スマホをポケットにねじこんで、男はぴっと親指を立てた。
「グッドラック!」
スポットライトの形に穴が開いて、あたしは悲鳴をあげるまもなく呑み込まれた。
*
「だから聞いてんのか、オイ!」
突然、怒鳴り声を叩きつけられた。
なに?
だれ?
「戦争に行きたくないとはどういう了見だ、この非国民め!」
「女は戦場に行ってナンボだろ! 働け! 戦え!」
えっ、ちょっと待って。
わけわかんない。
あたしは地面に転がっていた。
周囲には人垣ができている。
目の前には2人の男が仁王立ちしていた。
「弟の看病だとかいうくだらん理由など知らん。さっさと戦列に加われ」
そうだそうだー! と観客が沸く。
よく見ると男だらけだ。しかも全員、外人さん。
混乱して縮こまっていると、さらに罵声が飛んだ。
「さっきから黙りこくって! なにかいったらどうだ!」
「……にゃー」
ごめんなさい、と謝ったつもりだった。
あれ?
男たちは呆気にとられている。
「にゃ、にゃー」
もう一度謝ろうとした。
でも、口をついて出たのは猫の鳴き声だった。
「て、てめえバカにしてんのか!」
男の顔が真っ赤になる。
ズカズカと近づいて、腕を振りあげた。
――殴られる!
さらに体を縮こまらせたとき、救いの声が割り入った。
「そこまでにしたら?」
男の人の声だ。
群衆が一斉にどよめいた。
「ろ、ロビン様」
「しかしこの女は徴兵令をまったく無視してるんですよ」
「そのうえ猫の鳴きマネなんかして、フザけてるにも程があるんです」
「へえ、猫。いいじゃないか、オレは好きだよ」
あたしはのろのろと顔をあげた。
スーツ姿の青年が、こちらを見下ろしている。
「こんにちは」
「に、にゃあ」
挨拶をかえそうとしたのに、これだ。
あたしは口もとを両手で覆った。
ぶんぶんと首を振る。
「どうしたの、喋れないの?」
青年は優しく尋ねてくる。あたしはうなずいた。
「ウソつけ! さっきまでベラベラいいわけをまくしたててたじゃねえか!」
「だからといって、いま喋れないなら戦場には送れないだろう?」
「しかしロビン様、それではしめしがつきません!」
色めき立つ男たちを制したのは、黒服の男性だった。
ロビンと呼ばれる青年の横に無言で立ち、視線だけで群衆を威圧した。
ひと呼吸おいたのち、ロビンさんはあたしのまえに膝をついて、手を差し出した。
「オレの屋敷においで。手当てしてあげるよ」
*
それはとんでもなく大きなお屋敷だった。
お花畑や噴水のある庭を馬車でよこぎる。
御者は黒服の男の人だ。
「さあ、ついたよ」
ロビンさんが先に降りて、手を差し出してくれた。
この人、あらためて見るとものすごくカッコいい。
思わず頬が熱くなる。
こんなカッコいい人の手をとっていいのかな。
ためらっていると、ロビンさんのほうから手を重ねてくれた。
「おいで、キティ」
猫だから、その呼び方なんだろうか。
綺麗な微笑みを見られなくて、あたしはうつむきながら馬車を降りた。
……それにしてもここ、どこなんだろう。
あたしはいままで体育館にいたはずなのに。
「コンラッド。彼女の部屋の用意を」
黒服の男性は無言で一礼して、屋敷に入っていった。
ロビンさんはあたしを見て笑みを浮かべた。
「準備ができるまでに、体を綺麗にしておいで」
*
「ハイハイこっち来てくださいねーこっちですよー」
同じ年くらいの女の子にグイグイ引っ張られて、バスルームに連れてこられた。
やたら広くてピカピカだ。
「ハイ全部脱いでくださいねー。うわっ、ドロドロ。どこでどうしたらこんな汚れるんですか」
ズボっとワンピースを脱がされた。
あっというまに丸裸にされてしまう。慌てて胸を両手で隠した。
「にゃ、にゃー」
「……。新手ですね」
女の子はじとっとした目であたしを見た。
どういう意味なんだろ。
「じゃあ全身洗いますから、こっち来てくださいねー」
「みゃああ」
自分で洗えます!
あたしはぶんぶん首を振った。
「坊ちゃんのお客さんは丁重に扱うようにいわれてるんです。手間かけさせないでください」
「にゃっ」
あっというまに全身泡だらけにされた。
花の香りがバスルームに満ちる。
体中を洗われるくすぐったさに耐え、ばしゃーっと掛けられるお湯に耐え、湯船につかって100秒を数え、やっとバスルームから解放された。
仕上げにシルクのドレスを着せられる。
洗い髪をていねいに拭きとられ、結い上げられた。
「お化粧はいらないですね。ムカつくくらい綺麗な肌してますね」
そこで初めて、鏡を見た。
金色の髪をした、お人形さんみたいな美少女が、そこにいた。
……ダレ?!
頭の中が大パニックの大渋滞だ。
「ハイ、ぼーっとしてないで立ってくださいねー、坊ちゃんのところにいきますよー」
ずるずると引き摺られるようにして、ちがう部屋に連れていかれた。
*
「やあキティ。見ちがえたよ」
応接間にいたのは、ロビンさんだった。
新聞を折りたたみ、皮張りのソファから立ちあがる。
「とても可愛いよ」
「みー」
そんなことないです。
といいたかったのに、やっぱり鳴き声になっちゃう。
声帯は人間だから、猫の鳴きマネをしてるみたいだ。
いつのまにか、さっきの女の子はいなくなっていた。
名前聞きそびれちゃったな。
「オレの考えが正しければ」
ロビンさんの腕が、あたしの腰をからめとった。
びっくりして、彼を見上げる。
薄い茶色の、サラサラの髪。
「こうすれば、君は声をとり戻せるはずなんだけど」
もう片方の指に、あごをつかみとられる。
そのままごく自然に、唇が重なった。
意外なほどにやわらかな、男の人の唇。
「……っ」
事態はあたしの処理能力を越えていた。
だから、ロビンさんの腕のなかで、わずかに身じろぎすることしかできなかった。
あたしの唇をやわらかく食みながら、ロビンさんは薄く目をあけてあたしを見ていた。
目があって怖じ気づくと、ロビンさんは唇を重ねたまま、笑みのかたちに引き上げた。
あごにかかっていた手が、頬にすべる。
そのまま首すじをたどって、うしろ頭をつかんだ。
「んん……っ」
ぐっと腰を抱き寄せられた。
口付けが深くなる。
体内に熱が走り抜けて、立っていられなくて、あたしは膝から崩れ落ちそうになった。
「……大丈夫?」
あたしを抱きとめつつ唇を解放し、ロビンさんはいった。
長いまつげの下で、綺麗な双眸が光っている。
「ちからが……入らなくて」
細い声でこたえた。
そして、気づいた。
喋れてる。
ロビンさんは優しく笑みを浮かべた。
「話し声も、猫みたいに愛らしいね」