喋れた。
いままでにゃーしかいえなかったのに、いきなりどうして?
「キティ」
ロビンさんが、あたしの頬を手の甲で撫でた。
「もとにもどって良かったね」
「ごめんなさい、あの、あたし混乱してて」
「ああ、ごめん」
ロビンさんは、口の端に小さくキスを落とした。
「ろ、ロビンさん」
「キス、初めてだったよね。抱きしめただけで小さく震えて、とても可愛かったから、ついたくさん食べてしまった」
「ちょっと待っ……、待ってください」
ロビンさんを押しても、びくともしない。スラリとして見えるのに、胸板はひどく堅かった。
どうしよう。なんでこんなことになってるんだろう。
この人は助けてくれた人だけど、言葉遣いも優しい人だけど、でも、怖い。
得体の知れないこの状況が、怖い。
手が小さく震えた。目頭が熱くなり、涙がこぼれる。
「……かわいそうに」
ロビンさんは目尻に唇を押しあてて、涙を受けとめた。
「大丈夫だよ、キティ。オレが君を、護ってあげるから」
「あたしは」
首を振って、ロビンさんを見上げた。
「ロビンさんのことも、怖いです」
するとロビンさんは、クスクス笑った。
「うん、わかるよ。でもキティ、オレは」
ふいに、扉がノックされた。
ロビンさんが、なに、と穏やかに返事する。
「お部屋の準備ができました」
黒服の人の声だ。たしか、コンラッドさんという名前だった。
「うんわかった。ああコンラッド。君のことを紹介したい。入ってきてくれ」
扉が開かれた。
とても背の高い人だ。立っているだけで威圧感がある。
「キティ。彼はコンラッド=ウェイバー。我が家の執事だよ」
コンラッドさんは無言でお辞儀をした。あたしも慌てて頭を下げる。ロビンさんに抱き締められたままだったから、中途半端になった。
「家を取り仕切ってるのは彼だから、わからないことがあればなんでも彼に聞いて」
「はい」
コンラッドさんは、少し驚いたようにあたしを見た。普通に喋ったからかもしれない。
*
三階の一室に案内された。
学校の教室がふたつくらい入りそうな広さだ。
「綺麗なお部屋」
「君の部屋だよ」
ロビンさんはあたしの肩を抱き寄せた。思わず頬が熱くなる。
「あ、あの、ロビンさん。手……」
「左の扉は寝室で、その奥にバスルームがある。湯に入りたいときはさっきのメイドに申しつけて」
「……はい」
ロビンさんはコンラッドさんに目配せして、部屋から下がらせた。
扉が閉まる音に、緊張する。またふたりきりだ。あんなふうにまたキスされたらどうしよう。
「おいで。座って話をしよう」
ロビンさんに促されて、ソファに腰かけた。彼も隣に座る。
こんなふかふかなソファ、見たことない。このテーブルもツヤツヤして上品で、とても高価に見える。
キョロキョロしていると、ロビンさんがじっとこちらを見つめていることに気がついた。とたんに居づらくなる。
「あの、ロビンさん」
「なに?」
話があるんじゃなかったのかな。
相も変わらず綺麗な顔を見られなくて、視線を外した。
「ここがあたしの部屋って、どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ。君にあげる」
「あたし、家に帰らなくちゃ。母が心配します」
「今日からここが君の家だ」
あたしは動揺して、ロビンさんを見上げた。
「あの、帰らせて、ください」
「君が帰るところなんてどこにもないんだよ、キティ」
「あたしはそんな名前じゃない。あたしは村瀬――」
いいかけた言葉は、キスにのみこまれた。
あたしの体を挟むようにして、ロビンさんは背もたれに腕をつく。
逃げられない。
粘膜を味わわれるようなキスに、頭がクラクラする。
「……あ」
「忘れたほうがいい」
キスの終わりに、ロビンさんがいった。
「そのほうが楽だよ」
「は、放してください」
「どのみち君は、もうオレから離れて生きていけない」
ひどく優しい声で、ロビンさんはいった。
「どういうことですか。ロビンさんは知ってるんですか。あの、スマホを持ってた男の人のこと」
「知ってるよ。彼はオレの兄だから」
あたしは絶句した。
「兄は厄介ごとを抱えると、すぐにオレのところへ送ってくるんだ。さすがに女の子を送ってきたことはいままでなかったけどね」
「厄介ごと……?」
あたしが?
「その声は、数時間しかもたないよ」
あたしの喉を指先で辿りながら、ロビンさんはいった。
「また猫になったら、治してあげる」
「治すって……キス、ですか」
「そう」
「嘘です。だって、そんなばかなこと」
手が小刻みに震えた。
「家に、帰りたい。帰してください」
涙がこぼれる。
ロビンさんは、あたしを無言で見下ろしていた。
その時ふいに、扉がノックされた。
「ロビン様」
コンラッドさんの声だ。
あたしはロビンさんを力いっぱい押しのけて、扉を開けた。
コンラッドさんは驚いたように目を見張る。
「助けてください」
コンラッドさんに、必死にいい募った。
「あたし、ちがうんです。ロビンさんがいってること、ぜんぜんわからない。家に帰りたいんです、お願いたすけて」
あたしの両肩に手を置きつつ、コンラッドさんはロビンさんを見た。その目に、わずかな非難の色が浮かんでいる。
「……ロビン様」
「あまり愉快なものではないな」
ロビンさんは静かに立ち上がった。
「可愛い仔猫が、他の男になつくのは」
うしろからあたしのあごを掬い上げる。やめて、と声をあげるより先に、晒された喉もとへ唇を押しあてられた。
軽く歯を立てられ、肩が震える。コンラッドさんの服を、ぎゅっと握りしめた。
なんで――なんでこんなこと。
「キティ」
唇を離して、ロビンさんはわずかに濡れた喉をなでた。
「声を出してごらん」
「にゃあ」
え?
あたしは愕然とした。
「さあ、こっちにおいで」
あたしの指を、コンラッドさんの服からほどいて、ロビンさんは微笑んだ。
「でもおかしいな。会ったばかりの子に入れこむなんてオレらしくない。兄さんがなにか仕掛けたかな」
この人はいったい、なにを言ってるんだろう。
もう一度声を出してみた。にゃーとしかいえなかった。
これは本当に現実なんだろうか。夢なんじゃないんだろうか。
「キティ?」
足がもつれる。膝の力が抜ける。
崩れる体を、ロビンさんが抱きとめた。めまいがして、視界が暗くなっていく。
あたしはこれから、どうなってしまうんだろう。
意識は急速に墜落していった。
*
目が覚めたら、室内は闇に沈んでいた。
壁に掛けられたランプが、小さく揺らいでいる。
ベッドが広い。
あたしの部屋じゃない。
夢じゃ、なかった。
ふとんの中でまるまった。
声は出したくない。どうせ、鳴き声しか出ない。
ああでも、喉が渇いた。
あれから飲まず食わずだ。
喉がひりつくほど乾燥している。食欲はない。
しばらく丸まっていたけど、ついに耐えかねて、ベッドを降りた。
居間を抜けて廊下に出る。
ぽつぽつと壁燭がともっている。
足首にサラリと布地が触れた。いつのまにか、ドレスからネグリジェに着替えさせられていた。
キッチンは、下の階かな。
迷いつつ、それらしき場所に辿りついた。地下1階だ。キッチンというより、レストランの厨房といった感じだ。
お水はどこだろう。キョロキョロしていると、ふいに背後から声が掛けられた。
「そこでなにをされているのですか」
夜に混ざるような、低い声だった。
慌ててふりかえると、コンラッドさんが立っていた。手に燭台を持っている。
「にゃー」
お水が、ほしくて。
そういいたかったのに、鳴いてしまった。
コンラッドさんは燭台をキッチン台に置く。スーツの上着を脱いで、あたしの肩にかけてくれた。
「食べ物をご所望ですか」
首を振った。
「では、飲み物を?」
うなずく。
「であれば、お部屋にご用意したはずですが」
「……みー」
あたしはうつむく。気づかなかった。
コンラッドさんは表情のないまま、棚の扉を開けた。
「眠れないのであれば、アルコールを。たしなまれるほうですか?」
首を振った。お酒は飲んだことがない。
「一見して、そうですね」
そこで初めて、コンラッドさんの表情がゆるんだ。
ほんの少しだったけれど。
とても整った顔立ちをしているから、思わず見とれてしまった。
「ではハーブティーをお入れします。少々お時間をいただきますが、よろしいですか。お部屋へお持ちしたいところですが、夜中に貴女のお部屋へいったとなれば、ロビン様から小言をいわれてしまいますので」
あたしはうなずいて、手近にあった椅子に腰かけた。ここで飲む、という意志表示だ。
コンラッドさんは、大きなコンロの下部を開いた。焦げた薪が入っている。燭台の火を入れて、鉄の棒でかき混ぜ、フタを閉じた。
上部の鉄板に、ホーローのポットを置く。
少しずつ厨房内の温度が上がっていくのを感じた。あたしはぼーっと、コンラッドさんの作業を見ていた。
……やっぱりここは、日本じゃないんだ。
それどころか、現代かどうかも怪しい。
あたし、タイムスリップしちゃったのかな。
もう帰れないのかな。
「どうぞ、お召し上がりください」
キッチン台に、ティーカップが置かれた。
ほのかにいい香りがする。
あたしはぺこりと頭を下げて、口に含んだ。
花の香りが、ほどけてゆく。
「みー」
おいしいです。
そう伝えたら、ひとつぶ涙がこぼれた。
胸が痛んで、思わずネグリジェをつかんだ。
「……キティ様」
いつのまにかコンラッドさんが、すぐ近くに来ている。顔をあげると、深い海みたいな双眸に見下ろされていた。
「もし私が、貴女の声をとりもどせるといったら、どうされますか」
声、を?
意味をつかみそこねて、コンラッドさんを見かえした。コンラッドさんは一度目をそらし、やがて再びこちらを見た。
その瞳の奥に、熱が溜まっている。
長い指が、ティーカップを取りあげキッチン台に置く。
「もし本当に、これが『ナツ様』の仕掛けなら……、いや、そうでないにしても、私は乗るべきではないのですが」
コンラッドさんが、椅子のすぐ後ろの棚に、両手をついた。
しずかに身をかがめ、下から掬い上げるように、唇が重ねられる。
「……?!」
押しかえしたが、無駄だった。
ざらりとした舌で唇を舐めとられ、背筋がぞくぞくする。
「いや、やめて……っ」
声が出たのと、唇が離れたのが、同時だった。
コンラッドさんは棚から手を離し、上体を起こす。
「声、が……」
あたしは茫然と、喉を押さえた。
コンラッドさんは、じっとこちらを見下ろしている。
「なに? なんで……?」
「貴女はこの屋敷から出ないほうがいい」
コンラッドさんは、奥底に熱を秘めた声でいった。
「我々一族の者に、姿を晒してはいけません」
「どういう、ことですか」
「残りのお茶を。おひとりで戻れますね」
コンラッドさんは、ティーカップを差し出した。まだほんのり温かい。
「私は先に自室へ戻ります。おやすみなさいませ、キティ様」
一礼して、音もなく立ち去っていった。
コンラッドさんの上着は、あたしの肩にかかったままだった。