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 喋れた。
 いままでにゃーしかいえなかったのに、いきなりどうして?

 

「キティ」

 

 ロビンさんが、あたしの頬を手の甲で撫でた。

 

「もとにもどって良かったね」
「ごめんなさい、あの、あたし混乱してて」
「ああ、ごめん」

 

 ロビンさんは、口の端に小さくキスを落とした。

 

「ろ、ロビンさん」
「キス、初めてだったよね。抱きしめただけで小さく震えて、とても可愛かったから、ついたくさん食べてしまった」
「ちょっと待っ……、待ってください」

 

 ロビンさんを押しても、びくともしない。スラリとして見えるのに、胸板はひどく堅かった。

 

 どうしよう。なんでこんなことになってるんだろう。
 この人は助けてくれた人だけど、言葉遣いも優しい人だけど、でも、怖い。
 得体の知れないこの状況が、怖い。

 

 手が小さく震えた。目頭が熱くなり、涙がこぼれる。

 

「……かわいそうに」

 

 ロビンさんは目尻に唇を押しあてて、涙を受けとめた。

 

「大丈夫だよ、キティ。オレが君を、護ってあげるから」
「あたしは」

 

 首を振って、ロビンさんを見上げた。

 

「ロビンさんのことも、怖いです」

 

 するとロビンさんは、クスクス笑った。

 

「うん、わかるよ。でもキティ、オレは」

 

 ふいに、扉がノックされた。
 ロビンさんが、なに、と穏やかに返事する。

 

「お部屋の準備ができました」

 

 黒服の人の声だ。たしか、コンラッドさんという名前だった。

 

「うんわかった。ああコンラッド。君のことを紹介したい。入ってきてくれ」

 

 扉が開かれた。
 とても背の高い人だ。立っているだけで威圧感がある。

 

「キティ。彼はコンラッド=ウェイバー。我が家の執事だよ」

 

 コンラッドさんは無言でお辞儀をした。あたしも慌てて頭を下げる。ロビンさんに抱き締められたままだったから、中途半端になった。

 

「家を取り仕切ってるのは彼だから、わからないことがあればなんでも彼に聞いて」
「はい」

 

 コンラッドさんは、少し驚いたようにあたしを見た。普通に喋ったからかもしれない。

 

 

 

 

 三階の一室に案内された。
 学校の教室がふたつくらい入りそうな広さだ。

 

「綺麗なお部屋」
「君の部屋だよ」

 

 ロビンさんはあたしの肩を抱き寄せた。思わず頬が熱くなる。

 

「あ、あの、ロビンさん。手……」
「左の扉は寝室で、その奥にバスルームがある。湯に入りたいときはさっきのメイドに申しつけて」
「……はい」

 

 ロビンさんはコンラッドさんに目配せして、部屋から下がらせた。
 扉が閉まる音に、緊張する。またふたりきりだ。あんなふうにまたキスされたらどうしよう。

 

「おいで。座って話をしよう」

 

 ロビンさんに促されて、ソファに腰かけた。彼も隣に座る。
 こんなふかふかなソファ、見たことない。このテーブルもツヤツヤして上品で、とても高価に見える。

 

 キョロキョロしていると、ロビンさんがじっとこちらを見つめていることに気がついた。とたんに居づらくなる。

 

「あの、ロビンさん」
「なに?」

 

 話があるんじゃなかったのかな。

 

 相も変わらず綺麗な顔を見られなくて、視線を外した。

 

「ここがあたしの部屋って、どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ。君にあげる」
「あたし、家に帰らなくちゃ。母が心配します」
「今日からここが君の家だ」

 

 あたしは動揺して、ロビンさんを見上げた。

 

「あの、帰らせて、ください」
「君が帰るところなんてどこにもないんだよ、キティ」
「あたしはそんな名前じゃない。あたしは村瀬――」

 

 いいかけた言葉は、キスにのみこまれた。
 あたしの体を挟むようにして、ロビンさんは背もたれに腕をつく。
 逃げられない。
 粘膜を味わわれるようなキスに、頭がクラクラする。

 

「……あ」
「忘れたほうがいい」

 

 キスの終わりに、ロビンさんがいった。

 

「そのほうが楽だよ」
「は、放してください」
「どのみち君は、もうオレから離れて生きていけない」

 

 ひどく優しい声で、ロビンさんはいった。

 

「どういうことですか。ロビンさんは知ってるんですか。あの、スマホを持ってた男の人のこと」
「知ってるよ。彼はオレの兄だから」

 

 あたしは絶句した。

 

「兄は厄介ごとを抱えると、すぐにオレのところへ送ってくるんだ。さすがに女の子を送ってきたことはいままでなかったけどね」
「厄介ごと……?」

 

 あたしが?

 

「その声は、数時間しかもたないよ」

 

 あたしの喉を指先で辿りながら、ロビンさんはいった。

 

「また猫になったら、治してあげる」
「治すって……キス、ですか」
「そう」
「嘘です。だって、そんなばかなこと」

 

 手が小刻みに震えた。

 

「家に、帰りたい。帰してください」

 

 涙がこぼれる。
 ロビンさんは、あたしを無言で見下ろしていた。

 

 その時ふいに、扉がノックされた。

 

「ロビン様」

 

 コンラッドさんの声だ。
 あたしはロビンさんを力いっぱい押しのけて、扉を開けた。

 

 コンラッドさんは驚いたように目を見張る。

 

「助けてください」

 

 コンラッドさんに、必死にいい募った。

 

「あたし、ちがうんです。ロビンさんがいってること、ぜんぜんわからない。家に帰りたいんです、お願いたすけて」

 

 あたしの両肩に手を置きつつ、コンラッドさんはロビンさんを見た。その目に、わずかな非難の色が浮かんでいる。

 

「……ロビン様」
「あまり愉快なものではないな」

 

 ロビンさんは静かに立ち上がった。

 

「可愛い仔猫が、他の男になつくのは」

 

 うしろからあたしのあごを掬い上げる。やめて、と声をあげるより先に、晒された喉もとへ唇を押しあてられた。
 軽く歯を立てられ、肩が震える。コンラッドさんの服を、ぎゅっと握りしめた。

 

 なんで――なんでこんなこと。

 

「キティ」

 

 唇を離して、ロビンさんはわずかに濡れた喉をなでた。

 

「声を出してごらん」
「にゃあ」

 

 え?
 あたしは愕然とした。

 

「さあ、こっちにおいで」

 

 あたしの指を、コンラッドさんの服からほどいて、ロビンさんは微笑んだ。

 

「でもおかしいな。会ったばかりの子に入れこむなんてオレらしくない。兄さんがなにか仕掛けたかな」

 

 この人はいったい、なにを言ってるんだろう。

 

 もう一度声を出してみた。にゃーとしかいえなかった。
 これは本当に現実なんだろうか。夢なんじゃないんだろうか。

 

「キティ?」

 

 足がもつれる。膝の力が抜ける。
 崩れる体を、ロビンさんが抱きとめた。めまいがして、視界が暗くなっていく。

 

 あたしはこれから、どうなってしまうんだろう。
 意識は急速に墜落していった。

 

 

 

 

 目が覚めたら、室内は闇に沈んでいた。
 壁に掛けられたランプが、小さく揺らいでいる。
 ベッドが広い。
 あたしの部屋じゃない。

 

 夢じゃ、なかった。

 

 ふとんの中でまるまった。
 声は出したくない。どうせ、鳴き声しか出ない。

 

 ああでも、喉が渇いた。
 あれから飲まず食わずだ。
 喉がひりつくほど乾燥している。食欲はない。

 

 しばらく丸まっていたけど、ついに耐えかねて、ベッドを降りた。
 居間を抜けて廊下に出る。
 ぽつぽつと壁燭がともっている。

 

 足首にサラリと布地が触れた。いつのまにか、ドレスからネグリジェに着替えさせられていた。

 

 キッチンは、下の階かな。

 

 迷いつつ、それらしき場所に辿りついた。地下1階だ。キッチンというより、レストランの厨房といった感じだ。
 お水はどこだろう。キョロキョロしていると、ふいに背後から声が掛けられた。

 

「そこでなにをされているのですか」

 

 夜に混ざるような、低い声だった。
 慌ててふりかえると、コンラッドさんが立っていた。手に燭台を持っている。

 

「にゃー」

 

 お水が、ほしくて。
 そういいたかったのに、鳴いてしまった。

 

 コンラッドさんは燭台をキッチン台に置く。スーツの上着を脱いで、あたしの肩にかけてくれた。

 

「食べ物をご所望ですか」

 

 首を振った。

 

「では、飲み物を?」

 

 うなずく。

 

「であれば、お部屋にご用意したはずですが」
「……みー」

 

 あたしはうつむく。気づかなかった。
 コンラッドさんは表情のないまま、棚の扉を開けた。

 

「眠れないのであれば、アルコールを。たしなまれるほうですか?」

 

 首を振った。お酒は飲んだことがない。

 

「一見して、そうですね」

 

 そこで初めて、コンラッドさんの表情がゆるんだ。
 ほんの少しだったけれど。

 

 とても整った顔立ちをしているから、思わず見とれてしまった。

 

「ではハーブティーをお入れします。少々お時間をいただきますが、よろしいですか。お部屋へお持ちしたいところですが、夜中に貴女のお部屋へいったとなれば、ロビン様から小言をいわれてしまいますので」

 

 あたしはうなずいて、手近にあった椅子に腰かけた。ここで飲む、という意志表示だ。

 

 コンラッドさんは、大きなコンロの下部を開いた。焦げた薪が入っている。燭台の火を入れて、鉄の棒でかき混ぜ、フタを閉じた。
 上部の鉄板に、ホーローのポットを置く。
 少しずつ厨房内の温度が上がっていくのを感じた。あたしはぼーっと、コンラッドさんの作業を見ていた。

 

 ……やっぱりここは、日本じゃないんだ。
 それどころか、現代かどうかも怪しい。

 

 あたし、タイムスリップしちゃったのかな。
 もう帰れないのかな。

 

「どうぞ、お召し上がりください」

 

 キッチン台に、ティーカップが置かれた。
 ほのかにいい香りがする。

 

 あたしはぺこりと頭を下げて、口に含んだ。
 花の香りが、ほどけてゆく。

 

「みー」

 

 おいしいです。
 そう伝えたら、ひとつぶ涙がこぼれた。
 胸が痛んで、思わずネグリジェをつかんだ。

 

「……キティ様」

 

 いつのまにかコンラッドさんが、すぐ近くに来ている。顔をあげると、深い海みたいな双眸に見下ろされていた。

 

「もし私が、貴女の声をとりもどせるといったら、どうされますか」

 

 声、を?

 

 意味をつかみそこねて、コンラッドさんを見かえした。コンラッドさんは一度目をそらし、やがて再びこちらを見た。
 その瞳の奥に、熱が溜まっている。
 長い指が、ティーカップを取りあげキッチン台に置く。

 

「もし本当に、これが『ナツ様』の仕掛けなら……、いや、そうでないにしても、私は乗るべきではないのですが」

 

 コンラッドさんが、椅子のすぐ後ろの棚に、両手をついた。
 しずかに身をかがめ、下から掬い上げるように、唇が重ねられる。

 

「……?!」

 

 押しかえしたが、無駄だった。
 ざらりとした舌で唇を舐めとられ、背筋がぞくぞくする。

 

「いや、やめて……っ」

 

 声が出たのと、唇が離れたのが、同時だった。
 コンラッドさんは棚から手を離し、上体を起こす。

 

「声、が……」

 

 あたしは茫然と、喉を押さえた。
 コンラッドさんは、じっとこちらを見下ろしている。

 

「なに? なんで……?」
「貴女はこの屋敷から出ないほうがいい」

 

 コンラッドさんは、奥底に熱を秘めた声でいった。

 

「我々一族の者に、姿を晒してはいけません」
「どういう、ことですか」
「残りのお茶を。おひとりで戻れますね」

 

 コンラッドさんは、ティーカップを差し出した。まだほんのり温かい。

 

「私は先に自室へ戻ります。おやすみなさいませ、キティ様」

 

 一礼して、音もなく立ち去っていった。
 コンラッドさんの上着は、あたしの肩にかかったままだった。

 

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