前へ 表紙 次へ

 

「それで、なぜキティの声が戻ってるのかな」

 

 朝食の席での、第一声だ。
 穏やかな声だけど、目が笑っていない。

 

「こたえてくれないか、コンラッド?」

 

 コンラッドさんは、冷たいお水をグラスにつぎ足している。
 一拍置いてから、こたえた。

 

「私が昨夜、戻させていただきました」
「油断もスキもない男だな」
「ご意見は、どうぞナツ様に」

 

 コンラッドさんは悪びれもしない。
 ロビンさんは肩をすくめた。

 

「あの、少しいいですか」

 

 思い切って声をあげた。
 昨夜ずっと眠れずに、考えていたことだ。

 

「いまがどういう状況なのか、詳しく教えてくれませんか」

 

 帰りたいと泣いていたって、現状は変わらない。
 ここが日本ではない以上、どうすれば帰れるのか、情報を仕入れる必要があった。

 

 ふたりはあたしのほうを見て、少し黙った。
 やがてロビンさんが、優しい微笑をうかべる。

 

「それほどややこしい状況じゃないよ。オレとコンラッドはナツの――兄さんの手駒みたいなものでね。
 兄さんは箱庭をいくつも創って、そこに魂を入れて、シナリオを練って遊ぶのが趣味なんだ。オレたちはそれを手伝わされてる。
 一族の寿命はとんでもなく長いから、暇つぶしにちょうどいいかなと思って手伝ってるんだけど」

 

「ええと……最初から、よくわかりません」

 

「要するに、君は兄さんに囚われた魂なんだよ。兄さんの創った箱庭に閉じこめられて、台本と役割を与えられて、それをただこなしている。操り人形みたいなものだ。
 そうだな、わかりやすくたとえるなら、ゲーム。主人公、敵役、ライバル役、恋人役、モブ。エンディングまで行ったり、途中でゲームオーバーになったら、またべつのゲームに転生させられる。わかるかな」

 

「……なんとなく。でも、信じられない」

 

 あたしはゆるゆると首を振った。
 操り人形?
 あたしの――村瀬柚絵が、与えられた配役だったってこと?

 

『えーと、いままでのは【女子高生ほのぼのライフ】の女友達Fか。クソどーでもいい脇役だな』

 

 お兄さんの言葉が甦った。
 ぞくりと寒気がする。

 

「そういえばあのお兄さん、『バグった』っていってた。『あいつのところに送るか』って……」
「そこでいう『あいつ』は、十中八九オレのことだね。厄介ごとはぜんぶ押し付けてくるんだ。あれで一族最強の男だから、実に面倒くさい」

 

 ロビンさんはゆったりと水を口に含んでいる。
 あたしは茫然としながらも、疑問を口にした。

 

「あなたたちは、どういう一族なの」
「君の言葉でいうところの、悪魔かな」

 

 なんでもないことのように、ロビンさんはいった。

 

 

 

 

 ――逃げなきゃ。

 

 クローゼットを開けて、動きやすそうな服を探す。ドレスばかりで、ズボンのたぐいが見つからない。

 

 この屋敷は、おかしい。あたしがゲームのキャラだなんて、あのお兄さんが創った箱庭にいたなんて、信じられない。

 

 無理やり、キスされた。3度も。
 手首で唇をぬぐう。
 もうイヤだ。家に帰りたい。

 

「なにしてるんですか?」

 

 女の子の声がした。
 しまった、見つかった。

 

「逃げるんですか?」

 

 昨日お風呂に入れてくれた子だ。紺色のエプロンドレスを着ている。
 ロビンさんは、メイドだといっていた。

 

「……ちがう。ドレスは着慣れないから、べつのに着替えようと思って」
「逃げるんだったら、協力しますよ」

 

 女の子は、首をかしげてそういった。

 

「あなた、あたしたちの一族じゃないんですってね。かすかに力が混じってたから、てっきり一族の女がまたロビン様にいい寄ってきたんだと思いました。でもそれ、ナツ様の力だ。ナツ様から、なにかもらったんでしょ?」
「なにももらってないよ」

 

 心あたりがない。あたしは首を振った。

 

「そんなことより、協力してくれるって、ほんとなの?」
「うん」

 

 女の子は赤い唇で笑った。

 

「あたしはエーリカ。逃げるなら、男の子の格好したほうがいいよ。この箱庭は、女性が戦場に行くっていう設定なんだ。昨日みたいに、男たちに袋叩きにあっちゃうよ」

 

 

 

 

 気がかりなのは、声が猫になってしまうことだ。
 治すためにはロビンさんたちにキスをされなくちゃいけない。

 

 あたしはキスの経験がなかった。
 まんがやドラマでなんとなくこういうものかな、と想像していた程度だった。
 でもあの人たちのキスは、ドラマみたいな優しいものじゃない。
 呼吸さえ奪われるような、生々しさがあった。

 

「うん、なかなかの美少年って感じ」

 

 胸はサラシで抑え、長い髪は帽子で隠した。すり切れたシャツに、だぼっとした吊りズボンをはいている。
 エーリカちゃんに案内されて、裏口から出た。

 

「逃げるなら、キティ様の家にいきなよ。たしか、病弱な弟がいるっていうシナリオだったんだ。姉弟仲はよかったはずだから、きっとかくまってくれるよ。はいこれ、地図」
「ありがとう」

 

 折り畳まれた紙を受けとって、あたしは頭を下げた。

 

「でも、どうして手伝ってくれたの?」
「退屈だったから」

 

 あっさりと、エーリカちゃんはいった。

 

「あたしたちはね、いかにヒマをつぶすかっていうのが最大の命題なの。ロビン様にバレたらとんでもないことになるけど、そのギリギリのスリルを味わうのも楽しいしね」
「うーん、理解できそうにないけど、でも助かったよ」
「もしロビン様に捕まっても、あたしが手伝ったことは内緒にしてね。逆さづりで熱湯に何度も沈められる刑を100年間はキツいからさ」
「う、うん」

 

 とてつもなく不穏な一族のようだ。

 

 

 

 

 通りを歩く。石畳の歩道だ。すぐ横に、二車線の馬車道がある。

 

 馬車。あんなの、日本では見たことがなかった。大きくて、迫力がある。

 

 うつむき加減で歩いた。すれちがう人はみごとに男の人ばかりだ。
 あたしに関心を払う人はいない。変装がうまくいっている。

 

 女が徴兵される設定っていってたな。……悪趣味だな。

 

「あれ? おまえ……」

 

 正面で、男の人が立ち止まった。30代くらいの人だ。
 その顔に見覚えがあった。

 

「昨日の、フザけた猫女!」

 

 広場で、あたしを罵ってきた人だ。ザッと血の気が引いた。

 

「待てっ!」

 

 反対方向に駆け出す。心臓が早鐘を打った。
 捕まったら、昨日みたいにまた、囲まれてしまう。戦場に送られるかもしれない。

 

 そんなの、イヤだ!

 

「あ……!」

 

 弾みで帽子がうしろに流れた。まとめていた髪が、風に晒される。

 

「女だ!」
「昨日の女だ、捕まえろ!」
「ち、ちがう、あたしは――きゃあっ」

 

 乱暴に突き飛ばされた。背中が壁に打ちあたる。
 くらくらしながら顔を上げると、すでに十人以上の男の人に囲まれていた。

 

「やっぱ喋れるんじゃねえか」
「昨日はヘンな手をつかってロビン様の関心を引きやがって」
「とんでもない女だ」
「ちがうの、話を聞いて。あたしはここの国の人間じゃないの。だから」
「嘘つけ、おまえ二番街の『ヒナタ』の姉だろ」

 

 若い男性が冷たくいい放った。

 

「たしかにヒナタは丈夫じゃない。だがつきっきりで看病が必要なほどでもねーだろ。徴兵がイヤでわがままいってんの丸わかりなんだよ」

 

 あたしは茫然とする。
 ――だめだ。
 言葉が通じない。

 

「補給部隊がいまから戦線に出発するとよ」
「ちょうどいい、おまえその馬に乗ってけ」

 

 乱暴に腕を引かれた。

 

「やだ、離して!」
「観念しろ、さっさと来い」
「痛……っ」

 

 無理やり引きずられる。力ではどうしても敵わない。
 嫌だ、怖い。戦場になんて行きたくない。

 

 無我夢中で、男の人の腕を思い切り噛んだ。

 

「うわッこいつ!」

 

 男の人が悲鳴をあげた。ものすごい形相で、腕を振り上げる。

 

「おとなしくしろ!」

 

 ぎゅっと目を閉じたとき、周囲でざわめきが起こった。覚悟してた衝撃がいつまでたってもこなくて、恐る恐る目をあける。

 

「君たちには昨日、いったはずだけど」

 

 男の人の腕を後ろからつかんで、ロビンさんがいった。

 

「彼女は戦場に送らない」
「ろ、ロビン様、しかし――ううっ」

 

 ぎち、と腕をねじって背中に押しつける。

 

「この子はオレの飼い猫だよ。追いかけて怯えさせるなんて、ひどいことをする。ましてや、叩こうとするなんて」

 

 悪い子だ、と囁いた。直後、男の人の肩が嫌な音をたてた。
 絶叫が、迸る。

 

 ロビンさんはゆっくりと彼から手を離した。彼は肩を押さえながら地面をのたうちまわる。

 

 なに……?
 いったい、なにが起こって。

 

「キティ」

 

 名を呼ばれた。全身が強張る。

 

「こっちにおいで」

 

 手が差しのべられた。
 ロビンさんは、微笑している。

 

 あたしはその手を取れない。
 ぎこちなく首を振って、あとずさった。背中が壁に当たる。

 

「かわいそうに」

 

 ロビンさんがしずかにいった。

 

「怖かったね。もう大丈夫だから、こっちにおいで」

 

 まるで本物の猫に掛けるような声音だった。
 嫌です、とこたえようとしたら、出たのはにゃーという鳴き声だった。
 キスの効果が、切れたのだ。

 

「しかたないな」

 

 ロビンさんは、綺麗な顔に苦笑を浮かべた。
 一歩近づいて、あたしを壁際に追い詰める。
 男の人たちは、ロビンさんの雰囲気にのまれたのか誰も動かない。

 

 顔の両側に、手が突かれた。

 

「顔を上げて」

 

 いやだという言葉は、頼りない鳴き声になる。

 

「そのままだと、キスができない」

 

 こんな、人前で。
 目頭が痛んで、涙があふれた。かたくなに首を振るあたしの、あごを掌で掬い上げて、ロビンさんは優しくいう。

 

「ダメだよ、キティ。それは逆効果だ」
「……んっ」

 

 つくりものみたいに綺麗な顔が近づいて、じっくりと唇を奪われた。
 何度か柔さを確かめるように食まれたあと、ぬるりと熱い舌が入ってくる。

 

 びくりと震えた体を、きつく抱き込まれた。上向いた唇をゆっくり食べ尽くすように、蹂躙される。

 

 あたしの体からすべての力が抜け落ちるのに、そう時間はかからなかった。

 

「コンラッド」

 

 あたしを抱き上げて、ロビンさんはいった。

 

「先に馬で戻る。あとのことは頼んだよ」
「かしこまりました」

 

 ああ、またあのお屋敷に、連れ戻されてしまうんだ。
 逞しい腕に抱き込まれながら、ぼんやりした絶望が胸を覆った。

 

前へ 表紙 次へ