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 約束通り、あたしはエーリカちゃんが協力してくれたことを漏らさなかった。
 それ以前に、ロビンさんからはなにも聞かれない。
 怒られてもいないし、呆れられてもいなかった。

 

 部屋でしばらく休んで、ショックから少し回復した。
 ためらいつつも、ロビンさんの部屋をノックする。

 

 ロビンさんはソファに沈むようにして、本を読んでいた。コーヒーの深い香りが漂っている。

 

「どうしたの、キティ」

 

 ページにしおりを挟んで、ローテーブルに置いた。

 

「今日は、ごめんなさい」

 

 ぎこちなく頭を下げた。ロビンさんはやわらかくいう。

 

「猫が外へ逃げ出すのは、あたりまえのことだよ」
「……よく、考えてみたんです」

 

 まだうまくロビンさんを見られない。絨毯に目を落としながら、いった。

 

「ロビンさんに、助けてもらってばかりだなって思って」

 

 ロビンさんのいうことを信じるなら、すべての元凶はナツさんだ。
 むしろロビンさんは、『厄介ごと』であるあたしを保護してくれている。

 

「ありがとうございます」

 

 頭を下げる。ロビンさんは優しく笑った。
 瞳がやわらかく透きとおっている。

 

「外に出てどこに行くつもりだったの?」
「弟がいると聞いたので、その家に」
「よく場所がわかったね」
「あっ。ええと、人に聞きながらいこうかと思って」
「そう」

 

 つたないいい訳を、ロビンさんは流してくれた。

 

「キティが望むなら、いつでもつれていってあげるよ」

 

 ロビンさんは立ち上がった。つまさきがこちらを向くのを見て、思わずあとずさる。

 

「弟とやらにも会わせてあげる」
「ありがとう、ございます」

 

 早く出よう。急いできびすを返しかけたところで、腰をうしろから抱き寄せられた。

 

「は、放してください」
「どうして逃げるの?」
「ロビンさんには感謝してます。でもあたし、もうあんなキスは」
「じゃあどういうキスならいいの?」

 

 言葉に詰まる。
 腕の中で、くるりと体を回転させられた。
 正面から愉しそうな瞳に見下ろされる。

 

「……触れる、だけの」

 

 顔が真っ赤になるのが自分でもわかる。

 

「少しだけ、触れるだけの、キスがいいです」
「どうして?」
「頭がクラクラして、怖いから」

 

 指で、唇をなぞられる。もどかしい感触に、体の芯が熱くなる。

 

「わからないな。お手本を見せて」
「……え?」
「見せてくれないなら、オレのやりかたでするよ」

 

 あたしからする、ということ?

 

「そんなのむりです」
「どうして?」
「だって、恥ずかしい」
「本当だ、顔が赤いね。ああ下を向かないで。オレを見て。……そう、いいこだね」

 

 ロビンさんの瞳が、熱くゆらめいた。

 

「君の望むキスは、こうかな」

 

 ふわりと押しあてるだけのキスだった。
 余韻がやわらかく糸を引いた。

 

 ぽーっとしていると、ロビンさんはクスリと笑う。

 

「圧倒的に物足りないけど、そういう顔が見られるならたまにはいいかな」
「た、たまにじゃなくて、ずっとこっちにしてください」
「そう?」

 

 ロビンさんは嬉しそうに笑う。
 そこであたしは、自分の発言に気がついた。

 

 『ずっと』こっちにしてください。

 

「ちがう、ちがいます。あたしは猫を治して、家に帰るんです」
「じゃあオレは、君があきらめるのを待つよ」

 

 両手であたしの頬を包んで、ロビンさんはいう。

 

「君がすべてをあきらめて、この手の中に落ちてくるのを待つ」
「あきらめる……?」
「その時が来たら、オレのものだという証を君の奥ふかくに刻みつけよう。それまでは口付けだけで我慢しておくよ」

 

 ロビンさんは再び、触れるだけのキスを落とした。

 

 

 

 

 人工呼吸みたいなものだ。
 恋人同士のキスじゃない。だから、意味を持たせたらダメだ。

 

 翌朝、軽いキスを交わしたあとロビンさんは出掛けていった。

 

「早めに帰るよ。君が猫になる前に」

 

 午前中は部屋の掃除をして過ごした。エーリカが「ありがと! ついでに部屋のお風呂もやっといてくれると助かる」といっていたので、そっちもやっておこう。

 

 ドレスが濡れるといけないので、キャミとショーツだけになった。四つん這いになって床石をごしごし磨く。少しだけざらついた、ベージュ色の床だ。

 

 拭き掃除って、人を無心にするなぁ。
 そういえば、エーリカちゃんはどこにいったんだろう。

 

「エーリカ、掃除中か?」

 

 コンラッドさんの声が聞こえた。四つん這いのまま顔を上げるのと、浴室の扉が開くのとは、同時だった。

 

「キティ様が見当たらないのだが、どこにいらっしゃるのか知ってーー」

 

 空気が止まった。
 コンラッドさんは扉を開けたポーズのまま、あたしを見ていた。

 

 ……あれ。
 あたし、いま、下着姿……。

 

 肩からハラリとキャミの紐が落ちた。
 顔が一気に熱くなる。紐をつかんで、その場に座り込んだ。

 

「あ、あ、あの、あたし、掃除を」
「そのようですね」

 

 どうしよう、恥ずかしい。顔をあげられないでいると、ふいに肩になにかが掛けられた。せっけんの香りがする。バスタオルだ。

 

「昼食の準備ができました」

 

 コンラッドさんは目の前で片膝をついた。あたしの体を包むように、布地を引き合わせる。

 

「お部屋と食堂、どちらで召し上がりますか」
「……お部屋、で」
「ではお運びします」

 

 立ち上がり、出ていった。
 やわらかいタオルの中で、あたしは声もなく、恥ずかしさに身悶えた。

 

 

 

 

 食事用のテーブルに、お皿が並べられていく。焼きたてのパンから、香ばしい小麦の匂いが立ちのぼった。

 

 いつも給仕はエーリカちゃんが担当してくれていた。
 でもいまは、コンラッドさんがしてくれている。
 コンラッドさんは無口だから、フォークの音だけが響いている。

 

「あの、コンラッドさん」

 

 気まずさに耐えかねて、思いきって話しかけた。
 コンラッドさんがあたしを見る。
 濃い色の双眸が、どうしても厨房での出来事を思い出させた。

 

 ――あれは、人工呼吸。

 

「エーリカちゃんがどこにいるか知ってますか」
「いえ」

 

 コンラッドさんは短くこたえた。お茶のおかわりを注いでくれる。

 

「貴女はなぜ掃除を?」
「朝からすることがなくて、でも体を動かしたかったんです。最初はお庭を散歩しようと思ったんですけど」
「それは駄目です」
「はい。エーリカちゃんからもそういわれました。だから、掃除をしていたんです」

 

 コンラッドさんは無言で一瞥をよこした。威圧感がある。

 

「あの……いけませんでしたか? エーリカちゃんには喜ばれたんですけど」
「よくはないです。貴女はお客人ですから。しかし」

 

 無表情のまま、コンラッドさんはいう。

 

「動いていなければ落ち着かない気持ちはわかります」

 

 胸をつかれた。
 続いて、切なさがさざ波のように押し寄せた。

 

「ありがとう、ございます」
「……。貴女は本当によく泣く」

 

 低い声に、呆れが混じる。
 あたしは慌てて涙をぬぐった。

 

「ごめんなさい。あたし、マイナス思考なところがあるんです。体を動かしてないと、これからどうなるんだろうって、悪いことばかり考えてしまって」

 

 コンラッドさんは、じっとあたしを見下ろしている。
 そんなに見られると、落ち着かない。

 

 食べにくいながらも完食した。コンラッドさんは時計を確かめたようだった。

 

「仕事が一区切りするまでお待ちいただけるなら、庭をご案内します」
「え?! ほんとですか」

 

 ものすごく意外な申し出だった。

 

「嘘を申し上げたつもりはありません」
「ありがとうございます、嬉しいです!」
「では、二時間後にお迎えに上がります」

 

 庭で気分転換できる。嬉しいな。
 それ以上に、コンラッドさんがあたしの気持ちを汲んでくれたのが、嬉しかった。

 

 

 

 

「噴水にローズガーデン、菜園に温室、あとは裏に芝生があります」

 

 あたしの背中越しに、コンラッドさんの声が響く。
 庭といっても広いので、一通り回るには馬でないと無理らしい。

 

 乗馬は始めてだ。想像よりずっと、目線が高い。揺れるたびに内股に力が入ってしまう。

 

 あたしの体を挟むようにして、二本の手がたずなをにぎっている。白い手袋をはめていた。

 

 緊張を追い払おうと、あたしは声をあげた。

 

「ろ、ローズガーデンというのを見てみたいです」
「迷路のようになっていて、見ごたえがあると思います。が、いまの時期は見頃ではありません。温室であればアラマンダや月桃げっとう、茉莉花 (まつりか)などがご覧いただけます」
「温室……」

 

 ふと疑問が浮かんだ。

 

「このお屋敷は、広さの割に人が少なくないですか? 管理が大変だと思うんですけど」
「庭師はひとりです」
「ひとりでこのお庭を?!」
「キティ様」

 

 コンラッドさんは呆れたようなため息をついた。

 

「我々一族は人間ではありません。ひとりで充分です」
「もしかして魔法とか使えちゃうんですか?」
「魔法? ……まあ、俗物的ないいかたをすれば。厳密にはちがいます」
「どうちがうんですか」

 

 馬は軽快に歩いている。舌を噛まないように気を付けなくちゃ。

 

「私たちは『知っている』のです。水を、空気を、光を。世界の要素を知っているからこそ、それを使うことができる。魔法ではなく、知識です。わたしが先日の夜、コンロに火をつけたことを覚えていらっしゃいますか」
「はい」
「貴女が同じことをしても、火はつかない。もっと時間を手間を掛けなければならないでしょう。私たちは種さえあれば、それがどんなに小さなものでも、必要な分だけ必要なものを得ることができます」

 

 やっぱり魔法みたいだ。

 

 馬がゆっくりと速度をゆるめた。円形の大きな温室が建っている。

 

 

 

 

 一歩踏み入れると、生温い空気の塊に体を押された。

 

「温室の中って独特ですよね」

 

 さまざまな植物を流し見しながら歩く。通路は狭く、ひとりずつしか通れない。

 

 ビニル越しに、傾きかけた日が見える。

 

「いい香りの花」

 

 立ち止まる。掌くらいの大きな赤い花だ。

 

「どういう名前の花ですか?」
「わかりません。庭師なら知っていると思いますが」
「庭師さん」
「今度ご紹介します。お望みならこちらを一輪、差し上げますが」

 

 あたしはまばたきした。

 

「意外です」
「?」
「お花をプレゼントするなんて、コンラッドさんのイメージじゃないです」
「金銭を出して贈るわけではないので、プレゼントというと語弊がありますが」
「ふふ、それもそうですね。お花はいりません。切らないほうが長生きすると思うし」

 

 あたしは赤い花びらをなでた。
 しっとりしている。

 

「見たいときはまた、ここに来ます。あの……また来ても、いいですか」

 

 コンラッドさんは黙った。やっぱりダメかな。

 

「わかりました。時間のとれるときにお連れします」
「ありがとうございます!」
「ただしエーリカとふたりで来るのはおやめください」

 

 あたしはそろそろとコンラッドさんをうかがった。

 

「もしかして、バレてますか。逃げ出すときエーリカちゃんに協力してもらったこと」
「はい」
「エーリカちゃん、お湯に沈められちゃいますか?」
「あのような些末なことに腹をたてるロビン様ではありません。むしろ、貴女と『遊べて』ご満足そうでした」
「遊び、かぁ」

 

 そう軽く取ってもらったほうが、こちらとしてはありがたいのかもしれない。

 

「ロビン様は5000歳を越えるお方です。些細なことではお怒りになりません」
「ごせん?!」
「はい」
「えっ、だって見た目ハタチくらいですよね」
「見た目などどうにでもできます。箱庭に合わせて外見を変えていらっしゃいます。といっても、目や髪の色を調整する程度ですが」
「ええと、じゃあ、コンラッドさんもお歳を召しているんですか?」

 

 動揺してヘンな聞ききかたになった。

 

「いえ、私はまだ若いです」
「じゃあ見た目どおりハタチくらいの……」
「2000歳ほどでしょうか。うろ覚えですが。エーリカは300ほどです。赤子のようなものですね」
「…………」
「キティ様も魂としてみればエーリカと変わらないですよ。転生するたびに過去はリセットされますから、心身ともに成長はされていませんが」
「……あの。ロビンさんは、あたしの魂はナツさんに囚われたっていってましたけど、なんでそんなことになったんですか?」

 

 コンラッドさんはあっさりいった。

 

「運が悪かったのでしょう」
「運なんですか?!」
「はい。ナツ様に捕まらなかったら、箱庭などに閉じ込められることもなく、普通の人間界で輪廻を巡っていたでしょうに」

 

 ほんとに悪魔みたいだ。

 

「どうやったら箱庭からでられるんですか?」

 

 コンラッドさんは、ふと笑みを浮かべた。
 こたえは返ってこない。
 不可能、ということなんだろう。

 

 あたしはうつむいた。

 

「じゃああたしは、これからどうすればいいんでしょう」
「なにも」

 

 笑みのかたちのまま、コンラッドさんはいう。

 

「この屋敷のなかで、ごゆっくりお過ごし下さい」
「それだけですか?」
「ええ。むしろ、それくらいしかできることがない」

 

 いいかたが意地悪な気がする。

 

「でもあたしはなんとかしにゃー」
「…………」

 

 あ、あれ。

 

「にゃー」
「時間ですね」

 

 懐中時計を取り出して、コンラッドさんはいう。

 

「屋敷に戻りますか」

 

 あたしはうなずいた。ロビンさんはもう帰宅しているだろうか。

 

 もう少し見て回りたかったな。花を振り返りながら歩きはじめたら、コンラッドさんにぶつかってしまった。

 

 ごめんなさい。顔をあげた時、とん、と唇が重なりあった。

 

「……?! こ、コンラッドさん」

 

 猫が治った。いくら人工呼吸でも、いきなりはやめてほしい。
 コンラッドさんは自分の唇をぺろりと舐めて、いった。

 

「キティ様」
「は、はい」
「もう一度よろしいですか」
「はい。……ーーえっ?」

 

 腰を引き寄せられ、そのままたて抱きにされた。コンラッドさんの端正な顔が下にある。
 うしろ頭をつかまれて、唇に唇を押しあてられた。

 

「待っ……、んぅ」

 

 熱がからむ。
 劣情を擦り付けられて、全身が震えた。

 

「……キティ様」

 

 下唇を甘く噛みながら、かすれた声でコンラッドさんはいった。

 

「貴女を庭師に紹介するのは、やめておきます」

 

 再び深くなる口付けに、あたしはなすすべがなかった。

 

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