エーリカちゃんは書斎を手早くノックして、返事を待たずあたしだけを押しこんで、扉を閉めた。
強引なのも、ここまでくると尊敬に値する……かもしれない。
「どうしたの、キティ」
書きものをする手を止めて、ロビンさんは微笑した。
陽の光が、サラサラの髪をすべりおりている。
綺麗。ロビンさんは、とても綺麗だ。こちらが怖気づいてしまうくらい。
「ああ、猫になってしまったんだね。こちらへおいで」
ロビンさんは椅子を回転させつつ立ち上がった。
あたしはおずおずと、彼に近づく。
腰を引き寄せられた。心臓が胸を叩く。あごを掬われて、それからロビンさんは口端で笑った。
「いつもより緊張してる? 大丈夫、怖がるようなことはしないよ」
そうじゃなくて。
あたしは赤らむ頬を抑えられなかった。
たしかにもう、限界かもしれない。
ロビンさんが好きだと自覚して、そのあともこうしてずっと、抱きしめられて、キスをされる。平常心でいられない。
ロビンさんは言葉どおり、ふわりと優しい口付けをしてくれた。
「喋ってごらん」
「……はい」
「いいこだ」
額にキスをおとして、ロビンさんは微笑む。
どうしよう、心臓の音が聞こえちゃいそう。
「以前、おねだりは3つまでといった話を覚えてる?」
「はい、覚えてます」
3つめを考えていたけど、いい出せなかった件だ。
「もしキティが望むなら、ナツに会わせてあげようかと思ってるんだ」
「ナツさんに?」
あたしは目を見開いた。
たしかにあの時は、それを望んでいた。
ナツさんに猫を治してもらいたくて、そしてもとの世界に帰してほしかった。
けれど、いまは。
「ナツが新しい箱庭を創るという噂を聞いている。キティの前世に似たような世界だそうだよ。君が望むなら、その世界に新しく転生するよう、ナツにお願いしてあげようか」
「新しく、転生……?」
「そう。君は自覚がないかもしれないけれど、猫との分離は少しずつ自然に進んでいる。恐らく、次に転生するときには完全に離れると思うよ。だからもう一度、普通の人生をとり戻すことができる。ここでの記憶を消し去って、赤ん坊からやり直せるんだよ」
ロビンさんはあたしの髪を梳きながらいった。
あたしは茫然と、彼の言葉を聞いていた。
ここでの記憶を、消す?
ロビンさんから、離れる……?
「待って、ください」
あたしはロビンさんの胸もとをつかんだ。
「待ってください。あたしはそんなこと、望んでません」
「どうして? あれほど帰りたいといっていたじゃないか。泣いていた時もあったね」
ロビンさんの指先が、まぶたを辿る。
あの時は、確かにそうだった。
でもいまはちがう。
ロビンさんは優しく微笑んだ。
「本当はもう少し早く、ナツに会わせてあげるべきだった。でも君があんまり可愛かったから、手放したくなかったんだ。いまでもそう思っているよ。けれどそろそろ潮時かと思ってね。これ以上手もとに置くと、本当に帰せなくなってしまう。これでも責任を感じているんだよ。我が兄の不手際で、君を不自由な状態に置いてしまった」
ロビンさんが、あたしを手放そうとしている。
指先がスっと冷たくなっていく。
どうして、いま。気持ちを自覚した直後に、この人はこんなことをいうの。
ちがう。そうじゃない。あたしが悪いんだ。
いつも中途半端に、逃げてばかりだったから。
優しさをもらうばかりで、かえすどころか、ちゃんと自分の気持ちをいうことすらしてこなかったから。
「ロビンさん」
だから、ちゃんと伝えなくちゃ。
その結果、やっぱり手放されたとしたら、それはもうしかたがない。
悲しいけれど、なにも伝えずに別れるよりはずっといい。
「あたし、ロビンさんが好きです」
「うん」
ロビンさんは、かわらず微笑んでいる。
「ロビンさんが大好きです。だから、もし迷惑じゃないなら、そばに置いてください。これからもずっと」
好きです、とだけ伝えるつもりが、ずうずうしい願望まで伝えてしまった。
いったあとで赤面しても、もう遅い。
でも伝えたいことはいい切った。これでもう、悔いはない。
「それだけ、伝えたかったんです。聞いてくださってありがとうございます」
だめ、泣きそう。
あたしはぺこんと頭を下げたあと、早急に部屋を出ようとした。
けれど、腰に絡んだロビンさんの腕が離れない。
「あの……?」
「さて、キティ」
ロビンさんが片腕を窓にのばし、カーテンを閉めた。
室内がうす暗くなる。
「そろそろオレも我慢の限界なんだけど、キティは場所にこだわるほうかな?」
「ばしょ……?」
「こうも簡単に腕の中に落ちてきてくれるとは、オレも一芝居うった甲斐があったよ」
芝居?
って、なんのこと?
「ナツの動向はここ半年くらい耳にしていないんだ。ごめんねキティ」
「……え?」
ということは、つまり。
かあっと、頬に熱が昇る。
「だ、だましたんですかっ」
「オレが君を手放すはずがないじゃないか」
ロビンさんの笑顔はキラキラしている。
「ずっとオレのそばにいたいんだよね? 君を一族にしてあげる」
「ど、どうやって」
「いまから君はオレとひとつになるんだよ、キティ」
3秒遅れでその意味を理解して、あたしは逃走態勢に入った。
「待ってください、あたしは一族にしてほしいなんていってません」
「おなじことじゃないか。いいよ、わかった。ここがイヤなら隣の部屋に行こうか」
「いまから? 真っ昼間から?!」
「どうせ3日は籠もることになるんだから、時間帯なんて関係ないよ」
むちゃくちゃだ。この人、むちゃくちゃなことをいってる。
「むり!」
「ふふ、可愛いなキティは」
あごを掬われて、口づけられた。
「オレは以前、待つといった。もう充分だろう?」
ロビンさんは笑みを浮かべた。
その裏に、猛獣の影を見たのはあたしの気のせいだったのだろうか。
ロビンさんは、優しい。人の心をきちんと慮ってくれる。ものすごくオトナだ。
でももしかしたらそれは、あたしの勘違いだったのかもしれない。
たっぷりとしたキスを一生懸命受けとめながら、あたしはそう思った。
*
拝啓、ナツ様。
あたしをこの世界に送ってくださって、ありがとうございました。
次にお会いするときは何百年もあとかもしれませんが、その時にはみんなで一緒に、いろんな思い出話をしましょう。
キティより。
fin.